- トップ
- 富山大学
- 「東洋史概説?」を含む授業
- 渋谷由里先生の「東洋史概説?」の評価一覧
富山大学
渋谷由里先生の「東洋史概説?」の評価一覧
【富山大学】渋谷由里先生が担当する「東洋史概説?」には、1件の授業評価が寄せられています。授業の充実度は星5.0点、楽単度は星4.0点です。会員登録・ログインをして、在学生による評価とシラバスの内容をもとに、授業の選択・履修登録の参考にしましょう。
abcd さんの授業評価
| 学部 学科 | 人文学部 人文学科 |
|---|---|
| 担当の先生名 | 渋谷由里先生 |
| 授業種別 | 専門科目 |
| 出席 | たまにとる |
| 教科書 | 教科書必要 |
| 授業の雰囲気 | - |
| テスト |
前期/中間:
テスト・レポート両方なし 後期/期末: テストのみ 持ち込み: 教科書ノート持ち込み不可 |
| テストの方式や難易度 | - |
| コメント 授業の内容や学べたこと |
中国近代史前半期(清末期)についての概説。何度か出席確認をかねた小テストあり。 期末試験は以下の通り。 文中の空欄を埋めよ。 1. イギリス東インド会社は、アジアにおける( )の植民活動が衰える18世紀後半に台頭してきた。つまりイギリスにおける( )の進行や、資本主義経済の拡大とほぼ同時期である。 ところが対中国貿易にはいくつか問題があった。まず当時イギリスが主力商品にしていた( )や( )の需要が中国ではほとんど無かったこと。輸出が低調でありながら一方では( )の輸入が増大し、支払いに使う多額の( )を用意しなければならなかったこと。その( )の代わりに決済手段にされたのが( )のアヘンであった。 ただしイギリス・中国・( )といういわゆる( )貿易の構造だけではアヘン戦争の背景は理解できない。1820年代にロンドンに国際金融市場が登場して、世界中の取引が最後はイギリスの通貨( )で決済されるようになったこと。資本主義経済圏で新たに( )が登場し、( )商人がロンドン市場あてに振り出す手形が( )の代わりに中国にも使われるようになったこと。つまり世界経済がイギリスを中心に再編され、貿易が多角的になったことが重要なのである。 経済的に強くなったイギリスにとって最後の障害は、中国における制限貿易体制であった。中国は西洋諸国との貿易については1757年から現在の( )1港に限定し、行商または( )と呼ばれる特許商人を通じてのみ行っていた。しかし商人たちは清朝に上納する税金を上乗せした割高な価格を設定したうえ、清朝は西洋の商人を( )という狭い居住区に押し込め滞在期間も限定していた。こうした清朝の閉鎖的な体質が諸悪の根源だと決め付けたイギリスの( )外相は、その打破を求めて遠征軍の派遣を決め、僅差で特別支出を認められた。 2. 太平天国の乱は、( )率いる( )という新興宗教結社が起こした反乱である。( )は華南に多いマイノリティ( )の出身で、科挙合格を目指したインテリだったが受験に失敗し、( )で入手したキリスト教のリーフレット『( )』の内容などから霊感を受けた。信者の( )が神を憑依させてその言葉を取り次ぐようになり、地上に独自の天国を建設するよう叱咤したのが転機となり、1851年1月に、現在の広西省桂平県( )で蜂起した。やがて( )は( )に「即位」し、53年3月には南京を占領して( )と改名した。 しかし天国は56年9月の内紛から指導者層が交代し、以後は「忠王」( )が活躍した。天国に接した西洋人のうち( )は( )に傾倒し、見聞録『太平天国』を残している。一方では鎮圧軍の主力湘軍を率いる( )の要請で天国を追悼した、イギリス人( )の( )軍も有名である。天国軍は( )軍の最新兵器に勝てず、1864年7月に敗北した。 3. 太平天国とほぼ同時期に清朝を悩ませた外患は、イギリス・( )連合軍による侵略、すなわち第二次アヘン戦争=( )戦争である。アヘン戦争で充分に要求を満たされなかったイギリスは、( )への進出を考えていた( )に共同出兵をもちかけ、その了承を得た。なお同様に出兵を( )と( )には断られ、両国は戦後の条約交渉に参加するのを条件に、イギリス・( )の共同出兵を認めた。 アヘン戦争後の清朝は、イギリス植民地の( )総督と対等の交渉相手として( )総督を指定していた。( )総督は管轄区域内に( )を含む任務の特殊性から( )大臣も兼ねていた。( )総督はイギリス全権の役割も果たしていたので、イギリス側は( )大臣兼( )総督を清朝全権と解釈していたが、いかなる案件でも結局は皇帝の決裁を仰ぐ清朝従来の形は変わらず、外交処理の遅さに苛立ったイギリスは、1856年10月に起きた( )号事件を口実に開戦に踏み切った。 連合軍が北上し、( )に迫ると、南方の太平天国に苦しんでいた清朝は和平交渉に入り、1858年に( )条約を結んだ。しかし( )や、その寵妃で後に俗称( )で知られる女性は徹底抗戦を主張し、( )へ向かうイギリス・( )全権使節団を砲撃するよう命じた。清朝が強硬な態度に転じたため、イギリス・( )両国は戦闘を再開した。60年9月、( )は弟の( )に事後処理を任せて熱河の離宮に疎開した。なお翌月、イギリス・( )両軍は( )近郊の( )を破壊したうえ( )を開場させ、( )と交渉した結果、( )条約を締結して戦争を終結した。 4. 太平天国の乱鎮圧にあたって清朝が直面した最大の困難は、( )という従来の治安維持組織が役に立たなかったことである。補助武力として( )を使うことは例えば( )の乱でもあった。しかし太平天国での( )が特筆されるのは、これ以降補助武力の域を脱して事実上の主力軍に変貌したこと。またそれを組織した漢人官僚の( )や( )が急速に台頭し、( )運動などによって清末の外交内政を左右し、中国近現代史に多大な影響を与えたからである。 ( )運動は当時の元号をとって( )と呼ばれる安定を清朝にもたらした反面、地方的な実験と官僚の個人的努力にとどまり、財政難のただなかにあった清朝の全面的バックアップを受けられなかった。その限界が顕著に出たのが( )である。 近代における日清関係は最初から険悪だったわけではなく、1871年に締結された( )は平等条約であった。しかしこれは明治政府との関係再編を拒絶する( )への外交圧力として機能し、75年の( )事件による軍事圧力とあいまって( )の内政を動揺させた。それでも清朝と( )の強い宗属関係を恐れた日本は、清朝・薩摩といわゆる「両属」の状態を保っていた( )、あるいは清朝が主権を認識していない( )に進出し、70年代には南方辺境の切り崩しを図った。だが82年の( )、84年の( )で日清両国はいずれも( )に派兵し、関係を悪化させるにいたった。 ( )の直接の原因は、94年に起きた( )の乱である。清朝は( )政府の要請で出兵し、日本も対抗して出兵したが、( )が政府と和解して撤兵したため大義名分を失い、日本が清朝を挑発する形で海戦を始めた。国家予算の大半を傾けて海軍を整備した日本と、( )の個人的努力や財力に多くをゆだねた清朝とではおのずと勝敗は明らかであった。95年に締結された講和条約には( )に隣接する( )半島の日本への譲渡が明記されていたが、ここに莫大な権益を持っていた( )が、( )・( )を誘って干渉し、清朝に返還させた。それでも日本は( )を清朝から正式に割譲させて植民地とし、( )との宗属関係を放棄させ、( )での平等関係から脱却し、アジアの軍事大国として認識されるようになったのである。 |
| 授業を 受けた時期 |
- |
| 評価 |
|
(2008/02/04) [721128]

